玉門関
(エクスプレス No.03)
 西のかた陽関を出ずれば故人なからむ(王維)。
 長安(現在の西安)からさらに2000キロ奥地の敦煌には二つの要塞がある。漢の武帝が築いたもので玉門関と陽関である。ここからはタクラマカン砂漠の南辺を横切る天山南路を経てローマやインドに通づる。629年、玄奘三蔵法師もこの道を通った。この関を出れば再び故人(友人)に会える事もない。

 福井大学と友好協定を結んでいる西安理工大学を訪問した際、同大学の好意に甘えて、最果ての砂漠まで出かけたのには当然、ワケがある。
 30年来の夢だったのである。30年前、我々は真剣にアジアハイウェイ、つまりシルクロードの全工程をジープで走破する計画を立てていた。我々とは、本学では本多義明教授、櫻井康宏教授であるが、その頃は皆、20代であった。総勢10数名の「隊員」たちは、RARA(アジア地域開発学術調査探検隊の略)という組織を結成し、毎月勉強会を開いていた。但し、学術調査隊といっても正式のものではなく、仕事仲間が集まって酒を飲みながら面白おかしく作った組織である。いわば、ハイ・ブラウなレジャーといったところだろうか。とはいえ、我々は大まじめであった。三陸海岸までの悪路を何台もの車を連ねて一昼夜走りっぱなしの走行訓練を行ったり、隠岐の離島調査や韓国の都市調査訓練に出かけたりと準備に余念がなかった。
 しかし、いつしか隊員たちの任地も各地に散ってしまった。
 以来、機会を見つけてはインドネシア・アジアハイウェイを踏査したりしたが、ついにシルクロードの本道に立つ事はなかったのであった。

 それがやっと中国側の出口まで到達したのである。さらに玉門関から数キロ先、重畳として連なる万里の長城の風化する最前線も確かめた。この万里の長城の最先端は北京の八達嶺のような立派な磚(セン=中国式のレンガ)ではなく、砂漠の土を固めただけである。しかし下の写真の烽火台に見るように、砂漠に生えている灌木の小枝で床(トコ)を作り、その上に土をつき固めている。未だ形を留めているのはこの枝術のおかげである。殷以来の版築技術の伝統を確かめられたのも思わぬ収穫であった。

 もう一度写真を見てやってください。30年の想いがかなったその得意や思うべし。
 しかしそんな感傷を突き放すかのごとく、砂漠の空はいよいよ碧く、玉門関は2000年の風雪に耐えて屹立していた。