Designed by Kazuo SUZUKI
3棟開園当時の民家園
 福井市では当初考古民俗博物館を建設する予定があり、その附属施設として数棟の古民家を収集して保存公開しようと、市街地に隣接した足羽山、八幡山、兎越山から成るカルチャーパークの一角を敷地として選んだ。対象とする古民家は福井県下全域の、地域的、年代的特色のある優れたもので、所有者の事情によって近く消失する可能性があり、しかも緊急を要するものが選ばれた。
 結果としてすべての民家が比較的上層の「つのや」となったのは偶然である。県内の古民家を多面的に展示するには、規模や階層を幅広く網羅する事が望ましいのは言うまでもないが、提供の申し出を1棟ごとに審査する方法では選定にこうした偏向が生ずるのは止むを得なかった。
 工事の進行に応じて、1986年6月から一時的に仮公開しながら、1989年4月正式に開園した。なお、「おさごえ」の名は兎越山、あるいはこれと八幡山との間を通る峠道の古称である「尾左越」や「梭越」などに因んで命名された。
 ここに移築復原された古民家はすべて福井市指定文化財である。

 なお、おさごえ民家園に古民家を移築するに当たって、当研究室が復原設計の指導に当たった。
 この報告は『民俗建築』第102号(1992.11.30)に掲載されたものを元に、おさごえ民家園のリーフレットに使用した図版を流用した。

表門


 長屋門の型式をとる表門は、民家園の管理棟としても機能させるために採用された。居住者としては、主屋は廃棄しても門はなんとか維持し続けたいとする傾向があって、古い門を譲り受ける事は困難であると判断した。
 この門は、上志比村吉峰の多田家にある長屋門を参考にして作った。多田家の長屋門は茅葺きだが、文化財として扱われない新築のこの門は、他の移築民家のように建築規準法の例外規定が適用することが出来ないため、瓦葺きとした。

旧城地家住宅


 城地家は大野市蕨生の小字城地出にあって3000坪にも及ぶ広大な敷地を占めている。敷地は壕と土塁に囲まれ、主屋背後の小高い丘には屋敷神を祀り、そのかたわらには経塚もあったという。
 蕨生村は元禄4年(1691)以降勝山藩に属し、城地家は代々六右衛門を名乗ることが多く、慶応2(1866)には苗字帯刀を許された。当家には寛永期(1624〜1644)以降の古文書が数多く残されているが、住宅の建築に関する詳細な記録はない。明治期のものとみられる由緒書によれば、天明期(1781〜1789)と幕末の建築記録があり、そのうち後者については、明治22年(1889)に没した六右衛門が家屋を再建し、庭を造り云々とある。解体の折に、牛梁を受ける中柱の雌ほぞに墨書が発見され、嘉永5年(1852)、野中村の棟梁大久保源次郎らによって建てられたことが分った。
 茅葺の入母屋造で左右につのやを付す。屋根の勾配は強く、破風まわりも特に装飾的ではない。左のつのやは移築前には鉄板葺の2階建に変わっていたが、梁尻の残存状況などから右のつのやにならって復原された。
 正面の壁は建端が高く、軒は1間ごとに勾配のついた太い腕木で持ち出す。この腕木は町家の正面に多く見られる登梁の尻に似ており、内部は上屋桁通りの地梁にほぞを挿して天秤としているが、ほぞが薄すぎて割れたものが多かったため、移築に際して金物で補強された。奥の側面、背面の下屋は多少の改造はあったが、当初から瓦葺であった。
 妻入の越前型である。ニワの右半が奥まで入り込んで、部屋まわりと食い違っているのは奥越地方の特色である。移築前にデノマと呼ばれていたこの部分は、ダイドコロより高く、また部屋より低く床が張られていたが、右側面の柱間装置の敷居が低く、かつ、脇の柱には框の痕跡がないところから土間に復された。
 ザシキは12畳半と広く、背後の丘を利用して造った庭に面するよう横向に配置されている。ブツマ、シキダイとも10畳で、部屋は全体に大ぶりである。シキダイからブツマを経てザシキに至るハレの空間を構成する。
 ナカノマとオイエは内向に作られ、前記諸室とは板戸で仕切られる。ザシキの背後にある上便所へは、表向と内向の双方から別々に入れるようにしてあるのは珍しい。ブツマの背後にはウシロドと称する5畳間があったが、痕跡に基づいて縁と湯殿と便所に復原された。
 1階の床面積はざっと77坪、中2階は29坪を数えることができるが、柱間の延びを加えて厳密に計算すると1階が84.5坪、中2階が31.9坪となる。
 規模相応に柱、横架材とも太く、がっしりした造である。中柱は欅で、太さは1尺2寸角、ニワまわりは8寸角以上の柱を用いる。ニワの梁架構は越前型の標準的なもので、正面中央の柱から中柱へ架かる牛梁に梁行方向の梁を架けて地まわりを固め、これに束を立てて上屋桁をまわす。上屋の梁間は4間で、福井県の古民家としては最大級の規模を誇る。
 扠首は越前の古民家の多くの例とは異なって梁に挿している。前面の扠首のみを下屋桁に挿しているのは、つのや部に上屋下屋の別がなく、桁が主屋の下屋桁に高さを揃えてあるため、正面からつのやにまでまわり込む出桁造の軒の外観を整えようとしたものと思われる。
 シキダイ、ブツマ、ザシキには長押を廻らす。12畳半の座敷は縁、土縁、ニワへと続く広がりと相まってゆったりとした印象を与える。9尺の畳床を奥行浅くして作るのは、床の掛軸の保護のためもあって、古くはよく行われていたことであるが、上便所との間に隙間を設けようとの意図もあったのではないかと考えられる。
 炉の上のあま(火棚)は多くの古民家とは異なって、高い位置に木枠を角材で吊り、自在鉤は太い丸竹に通した大きな滑車から吊り下げられている。滑車は2個通してあり、その位置は炉の長手の方向に自在に移動できるようになっている。
 座敷まわりの壁が、小舞も含めてすべてが2重に作られていることが珍しい。
「足羽川の清流を愛する会」の総会の後でフルートの演奏会が開かれました。(1996.4.27)

旧岡本家住宅


 岡本家住宅は、浅い谷に立地する上中町有田の下手の中央部に建っていた。500坪を越える敷地は東入で、北には谷から流れ出る小川と、それに沿って集落の奥に通じる道が通る。西には一段高い畑が、南には水田と隣の宅地が接している。
 岡本家の宅地も、集落の傾斜に合わせて西から東へ緩く傾斜し、主屋は敷地のほぼ中央に東面して建っていた。主屋のほかに3棟の土蔵と2階建の新しい納屋、それに柴小屋、灰小屋があって、それらの屋敷全体が、かつての庄屋層の屋敷のたたずまいをよく保存していた。これらのうち、柴小屋と土蔵1棟、および灰小屋が主屋とともに移築され、できるだけ原敷地の雰囲気を伝えるよう配慮して復原された。
 主屋は茅葺入母屋造平入で、右手前方につのやを出す。軒が低く深いさまはいかにも古風である。越前と異なり、若狭ではつのやは珍しく、当住宅をはじめ数棟を数えるのみである。
 屋根の輪郭もまた越前と異なり直線的で、棟仕舞も丸みを持たず杉皮を折って伏せ、5本の丸竹で押さえている。
 間取りは棟通りで前後に大きく2分され、後ろにザシキ、ナカノマ、モノオキ、ナンドを連ね、前にはオオニワをはさんでウマヤとダイドコロを配する。オオニワはダイドコロの前方に作られたつのやの部分にも連なり、この上にオトコシベヤを設ける。オトコシベヤとは言うが、浅い床の間を構え舟底天井を張ったさまは、単に使用人の部屋としては奇妙で、主人の遊び部屋的な時期があったのかも知れない。
 ザシキと縁側境の中央に立つ柱には、障子1本分が通り抜けられるよう繰り抜いてあるが、その理由は明らかではない。当家ではこれを庄屋柱と呼び、当家を訪れた代官などが外から切りつけられぬようにしてあるのだと伝えている。
 上屋の梁間は3間半、桁行は4間半である。周囲に半間の下屋を葺き下ろす。扠首は下屋桁に挿してあるが、これは後の改造時、恐らくつのやを増築したときに変更されたもので、当初は上屋桁に挿してあったことが痕跡により明白である。おさごえ民家園への復原移築にあたっては、つのやが増築された時期を目安に復原されたため、扠首尻もそのままとされたが、工事中に桁が開き始めたため金物で補強する措置がとられた。
 梁行の室境では4か所ともに独特の架構法をとっている。つまり、下屋の繋梁を、上屋桁の位置から内側を貫状に削って中央の柱まで通し、差物とともに構造を固めているのである。坪川家住宅(丸岡町、重文)など越前の古民家では、梁のほぞをそのまま延ばして下屋の繋梁とした例はあるが、このように繋梁のほぞを1間も2間も延ばした例を筆者はほかに知らない。これと同様の構法は桁行でもウマヤとサンジョウの境で採用され、この住宅の架構を特徴付けている。
 庄屋層の住宅でありながら座敷があまり整備されてなく、後の改造、増築になると見られる部分の材さえもかなり古びて見えることから、18世紀まではさかのぼるものと見られていた。
 移築に際して、サンジョウの縁側の板から安永3年(1774)の、また、ナカノマ、オオニワ境の板戸の上桟から天明4年(1784)の墨書が発見されたため、これ以前の建築であることがほぼ確かめられた。特に縁のこの部分は、ザシキの縁とは細部の仕様が異なるため増築された部分であることが明らかである。したがって、創建はこれよりある程度以前、すなわち、18世紀中ごろか18世紀前期と言ってよかろう。

旧岡本家土蔵


 これは岡本家に残っていた土蔵3棟のうちの1棟である。
 規模は梁間2間、桁行3間で、屋根は燻し瓦桟瓦葺き、壁は中塗り仕上げである。壁から屋根にかけて土を塗篭た上に、4組の合掌を鯖組みにして置き、それに母屋垂木を置いて瓦を葺く。つまり、屋根が2重になっているのである。2重屋根の空隙の両妻側にはそれぞれ2つの換気孔を明け、金網を張って鳥獣の侵入を防いでいる。外壁を中塗り仕上げのままとして腰板を張ってないにもかかわらず、特に重大な損傷が見られないのは、屋根を2重にして軒を3尺近くも出しているからであろう。
 基礎は山石を空積みにし、そのうち2段約50センチを極めて意匠的に外部に見せている。その上に凝灰岩の切石を並べ、これに土台を伏せて柱を立てる。土台と柱は共に栗材であるが、3本の柱が柱根を残して杉材に変っているのは、この土蔵がかつて一度主要な材を用いて再建されたものであることを示している。
 1、2階とも、壁には柱の間に板を張って、土壁の保護を計っている。
 架構は桁行の中央に丸太に近い断面形状の虹梁をかけ、これに太い地棟を乗せて棟木や母屋を束で支えるのである。母屋のスパンは1間半になるが、これを可能にしているのも2重屋根を採用したためと考えられる。虹梁と地棟は柱同様黒く変色した栗材で、束、母屋、棟木、垂木、野地板は杉材、桁、妻梁は松材である。

岡本家灰小屋

 かつて、農家の庭先には囲炉裏や竃の灰を蓄えるための施設として灰小屋があった。多くは1間に半間、あるいはそれ以下の小さなものであった。時には外便所と同じ棟に作られていたこともある。灰は屎尿と同様、田畑の肥やしとして使われたのである。火の気が残っていることもある灰を安全に保管するために、灰小屋の内部は壁土で塗篭められている。
 家庭におけるエネルギー源の変化と金肥の普及に伴って、灰小屋は小建築ゆえに見る間に消失してしまった。この灰小屋は在来の位置関係とは変えざるを得なかったが、農家に附属した小建築の遺例として移築保存するこにした。

岡本家柴小屋

 かつて、日本の農村におけるエネルギー源は、そのすべてを木に頼っていたと言っても過言ではない。割木や柴で煮焚きをし、暖を採っていたのである。したがって、それらの得やすい環境を求め、その環境の保全に意を注いできた。割木や柴は軒下やつしに保管されたり、それらを積んで藁などで雨をしのいだ。柴小屋あるいは薪小屋は、より高度な専用の保管施設として建てられたものである。
 この柴小屋は、かつては住宅主屋の北側に並行して建っていた。規模は1間×3間の簡素な切妻の建物で、西、北、東の3方を板壁で囲い、主屋に面した平側の1面を開放とする。軸部はすべて栗材を用いており、風雨に晒されやすいこの種の建物としては適切な選択である。
 当柴小屋は主屋より一足早く移築され、民家園の仮開園に合わせて入園者のための便所の上屋として利用された。しかし、柴小屋としての建築部材はすべて損傷なく保全が図られており、いつでも元の柴小屋に復原できる状態にある。

旧蓑輪家住宅


 蓑輪家住宅の建っていた今立町八石は、弥生時代の石剣が出土したことからも知られるように、早くから開けた土地だった。蓑輪又兵衛家はここで古くから庄屋を勤めてきた家柄である。
 村の中央正面に屋敷を構え、「かぐら」を正面と右側方の二方に付けたその姿は、実に堂々としたものであった。しかし、それは一時に出来上がったものではなく、何度かの増築を経て完成したものであった。
 かぐらというのは八石近辺ではつのやのことを指している。つのやはもともと建築の規模を拡大するための手段の一つであった。坪川家住宅(丸岡町、重文)や梅田家住宅(現福井市おさごえ民家園)は建築当初からつのやを付して規模拡大と格式表現をはかった例だが、蓑輪家住宅はまさにつのやを増築して規模を拡大したものである。
 つのやではないが奥のザシキとブツマの部分も後に増築されている。これは、一見してわかる材料の相違と、接続部に少しずれながら並んで立つ2本の柱によって知ることができる。
 移築前の敷地は、今立町月尾谷の八石集落の要の位置を占めていた。西向斜面の裾に近い敷地の中央に、当住宅は西南西を向いて建っていた。敷地の上手は、その幅を次第に狭めつつ、同時に高さも増している。もとの地形を生かしながら、座敷の西には池を掘り、上手に築山を築いて、庄屋らしい格式を表現していた。敷地の南には、谷の奥へ向かう道が小川に沿って通り、屋敷への入口はこの道の下手にある。西は低い崖となり、その下に狭い村道が水田を画す。北は隣地に接し、東には南からの道がまわり込んで、敷地の幅を狭めている。敷地面積は約690坪である。
 移築先のおさごえ民家園では、敷地の制約があってもとの方位のままに復原することが困難だったため、建物の背後に山の見える元の景観にならって、東向に配置した。
茅葺き屋根の補修工事は雪が消えた春に行われる。(1996.4.27)
 妻入主屋の前面右手には主棟に対して直角につのやを出し、前面左手には主棟と平行につのやを出して、これら二つのつのやが交わる入隅部に戸口を設けている。移築前は、主屋の裏まわりの下屋を杉皮葺、ほかの下屋は大部分を瓦葺としていたが、移築に際して、茅葺の葺下ろし、または板葺石置屋根に復された。これは明治19年の家屋台帳の記載から推測したものである。
 蓑輪家には寛政5年(1793)と文化6年(1809)の普請帳が残されており、その内容から、前者はウマヤとカマヤを増築しダイドコロを拡充整備したときのものであり、後者はザシキとブツマを増築したときのものであることがわかる。したがって、これら増築部分を除くと、当初は間口4間、奥行5間の規模に一部下屋が付いた程度の直屋だったことが判明する。
 当初の直屋部分の材は、文化6年の座敷まわりの材に比べて格段に古く、そのため18世紀前半ごろには建築されたものと考えられている。座敷まわりは、当初からの欅や栗の太い柱に、杉の細い柱を添わせて増築したもので、この時代になると数寄屋風書院造への憧れがいかに強く、また階層によっては、それに近付くことが可能になったことをも示している。
 ウマヤのあるつのや部分は、もともと一軒の独立した民家だったことが、接合部の様子から推定できる。しかし、その規模は蓑輪家住宅の当初部分に比べて約半分しかなく、当時としては蓑輪家が相当大きい民家だったことを裏付けている。

普請文書 2点


 今立郡今立町八石4-3 蓑輪又兵衛氏蔵
 今立町八石の蓑輪又兵衛家には寛政5年(1793)と文化6年(1809)の普請帳が残されている。後者は、その内容から後部のザシキとブツマを増築した際のものであると推定されている。一方、前者には「どうけ弐本」の記載があり、大戸口脇の便壷と一致するため、ウマヤのあるつのやはこのとき増築されたものと考えられる。ところが、ウマヤまわりの柱には現状では説明の難しい痕跡があることや、接続部の柱梁の状態から、別の独立した住宅を付加したものであることがわかる。また、多量の板材や「こわ」を入手したことが記され、「ゆるぶち(いろりぶち)」、「上大所(上台所)」、「北の方けや(下屋)」、「かま屋」などの言葉も見られることから、同時に、前方に突き出したカマヤ(つのや)と左側に葺き下ろした板葺のダイドコロを増築し、オウエの床板を張るなど、大掛かりな修理を施したことが普請帳から知られる。
 寛政5年の「丑としふしん諸入用帳」には、大工や木挽などに支払った手間賃の明細と、板材や貫などの寸法と購入先、及びその価格、さらに普請見舞に貰った品物の数量や現金の額と、その贈主の名が記載されている。それによると、賃銀と購入代金の合計は銀約280匁であった。見舞は酒2升というのが最も多く、酒札2升または銀2匁がそれに続く。そのほか、茅や縄、あさぎ(麻木)などという屋根材料や、大豆、はまちといった食品も貰っている。酒の量は2石4斗を超え、大工に支払う手間賃の一部としても使われている。見舞の件数は90件にも及び、そのほとんどは月尾谷の諸村落に集中していた。
 工事は寛政5年と翌6年の2年間にわたり、その間6度の午長(丁)を催している。「午長」とは普請の労をねぎらうために、近い親戚などが大工や施主に馳走を振る舞うことをいう。振舞主は八石の専介、山越、孫右衛門、惣左衛門のほか、春山の庄太夫、山室の弥次兵衛であった。庄太夫はこのほかにも金1歩と銀2匁を、また弥次兵衛は酒1斗にはまち1本と、格段の見舞を贈っているところから、特に近い親戚であったことがうかがわれる。
 文化6年の「巳年普請入用覚帳」によれば、手間賃と諸材料費は合計約銀303匁でありながら、見舞は54件と寛政のそれに比べて極端に少ない。八石村内からの見舞は増えているが、大平、長五、杉尾、定友の各集落からは大幅に減っている。見舞に貰った酒の量は7斗1升と、寛政の3分の1以下である。16年の間に付き合いの範囲がそれだけ変わったと見ればよいのであろうか。寛政の工事期間が2年であったのに対し、文化のそれは壁塗まで4年、縁と雨戸はそれからさらに6年後に工事をしている。しかし、文化8年に見舞のほとんどが集中しており、それまでは木挽などによる材料調達の期間であったと考えられる。見舞の少なさは寛政のそれに比べて工事規模の小ささを反映しているのかも知れない。
 文化年間の工事では、灰墨(煤)、しぶ(柿渋)、漆を粟田部の武兵衛から買っている。越前で一般に行われてきた建築の着色法がこれにより確認できる。ただし、購入時期から推して、着色は建前の後に行われたらしい。武兵衛からは釘やふのりなども求めていて、そこはかなり広範囲に建築材料一般を商っていたことがうかがわれる。寛政の普請時には釘は、野岡村から買ったことが記録されている。

旧土屋家住宅


 土屋家住宅がもと建っていたのは、金津町前谷のなだらかな丘陵地の先端であった。国道8号線は目と鼻の先にあるが、杉や欅の林と竹薮の豊かな環境はそれを感じさせなかった。このあたりは永正5年(1508)加賀一向一揆と朝倉氏との間で激戦が戦わされたところである。
土屋家は、当家所蔵の「永記」によれば、頼朝の家臣和田義盛の三男朝比奈三郎義秀の末裔で朝倉義景にも仕えたと伝え、代々治(次)郎左衛門あるいは権右衛門を称した。
 前谷村は江戸時代を通じて139石余の村高を持ち、貞享3年(1686)福井藩領から幕府領となり、文政3年(1820)再び福井藩領となった。当家は幕領時代を通じて、前谷村の庄屋あるいは前谷村周辺の組頭(大庄屋)役を勤めた。また、幕府領米の廻漕に当たる納庄屋にも何度かなっている。当家には庄屋文書、大庄屋文書など 200点以上にものぼる文書が伝えられており、近世史研究に貴重な史料を提供している。それらの史料から、土屋家の屋敷地4反4畝余が年貢の免除地であったことを知ることができるが、現在の屋敷地はそれほどに広くはない。
 東に面した道には茅葺の門を開き、門の正面奥に住宅が東面して建っていた。その間を結ぶ石敷の延段の北側には瓦葺の納屋と外便所が建ち、南側には近年新たに住宅が建てられた。門は壁と天井を割竹を編んで作った素朴な四脚門で、外便所も妻壁を割竹編とし、出桁にして桁を深くするなど堅実で控え目な意匠に好感が持てる。旧住宅の北側には、自然地形を利用した古い庭園の痕跡が見られる。また、南には渡廊下が延びて土蔵と結ばれていた。
 移築にあたっては、新しい敷地の都合上それまでの東入を南入に変えざるを得なかった。建築年代は幕末から明治初期にかけてであろうと考えられるが、そのころは各地で盛んに家相を見てもらうことが流行っていたようで、ニワの右がオイの幅より狭く、欠き取られたような形になっているのは、その方角が東北の鬼門に当たるためかも知れない。
 土屋家住宅は、坪川家住宅(丸岡町、重文)と同じ越前。型である。坪川家住宅は梁間が大きいために土間とオエ境の中央に柱を立てるが、土屋家住宅では上屋の梁間が2間半であるためにそれがない。ニワとオイ境の左右に上屋柱が立ち、その間に虹梁を架ける。虹梁の上には束を立て、貫で結んで構面を固めるが、坪川家住宅と違って壁を塗らない。虹梁の位置が低いことが、ニワとオイを空間的に分割する効果を生んでおり、これが越前型と異なる点となっている。土屋家住宅では、この下に鴨居を吊って建具を建て、前後を仕切っていたが、これは後世の改造によるもので、移築を機会に復原された。
 越前。型の例に漏れず、間取りは奥に深い。オイの後ろに6畳2室と8畳2室を田の字型に配するが、縦の間仕切がオイ境の柱の位置と一致していない。一見奇異に思われるこの処理も、よく見ると、明確な意図に基づいて行われたことがわかる。つまり、オイの背面を完全な対称形にすること。2間半を隔てて立つ上屋柱の中央に中柱を立て、左右に1間の下屋を出す。それぞれの柱間は同寸の背をもつ平物で結び、平物の上にはそれぞれの柱間を2分割する位置に束を立て、それらを大貫で固めて装束を形成する。そこに、上屋と下屋とが融合した整った面が展開するのである。上屋と下屋を合わせて4間半、6畳2室と縁側とでやはり4間半、縦の間仕切と柱の位置が一致しなくても、帯戸の開け方を工夫すれば使い勝手に支障はないと考えたのである。ブツマ側に縁側を、ザシキ側に濡縁をもってきたのは、ブツマの方に人がより多く集まることを予定してのことであろう。
 土屋家住宅では、ザシキとイマの上部は天井に隠れて観察することができないが、ブツマと縁境に対応する柱間装置がないために、天秤梁を用いた大胆な架構法で上屋と下屋をつないでいる。巧みではあるが、アクロバチックにすぎるきらいもないではない。
 ニワの左にナガシとウマヤを設けてつのやで覆っている。ところが、平面図を見ればわかるように、オイの間口も4間半、ニワの間口も4間半だから、平面をずらさなければつのやなど出す必要はないのである。平面をずらしたのは鬼門の向きを欠くためでもあったろうが、片方につのやを出して外観を飾るためでもあったのである。ニワのまわりの2重の腕木を出した出桁造は、坂井郡特有の、前に大きく転んだ破風とつのやの外観を引き立てている。

旧土屋家外便所


 便所は、一般に「せんち」と呼ばれることが多かった。雪隠に近い言葉である。
 人の糞尿は、家畜の敷き藁などとともに大切な肥料として使われてきた。農業生産の増大とともに便槽は大きくなり、やがて、貯蔵と腐熟を兼ねて、いくつもの便槽を持った別棟の便所が作られるようになった。嶺南地方では、今でも外便所をあちこちで見かけることができる。おさごえ民家園に移築した民家の中では、他に城地家と岡本家に外便所があった。
 外便所では、出桁にして軒を深くしたものが多い。それは、雨や雪が便槽に入って、そのために肥料の利きが損われるのを避けるためである。土屋家の外便所は、大正時代に建ったものと考えられる。妻壁を割竹編みにして、住宅や門との調和を図っている。
 なお、この外便所は1991年の台風19号で倒壊した。西面を開放し他の3面を壁で閉ざしたこの小建築は、兎越山からの吹き下ろしに耐え切れなかったのである。再建に当たっては、金物で土台を基礎に緊結するなどの対策を施した。

旧梅田家住宅


 梅田家住宅はもと福井市浄教寺町にあって、昭和43年(1968)に行われた民家緊急調査でも対象とされていた。天保8年(1837)の表紙だけが残された「火事見舞覚帳」や、数年がかりで欅の上質材を揃えたことなどを伝えていることから、この住宅の建築年代は、それからしばらく後の天保末から弘化年間(1844〜1848)のことであろうと推測されてきた。また、棟梁が永平寺大工であったことも伝えられていたが、解体中に中柱の牛梁のほぞ受から棟梁の名を記した墨書が発見され、その事実が確認された。そこには「大塚杢左衛門」と記されており、その末裔は今も永平寺町で製材業を営んでいるが、そこに残された文書からも、梅田家住宅の建築年代はやはり弘化年間ごろと推定できる。
 旧所在地では、向かって右と後ろには宅地が、左と前には水田が接しており、ほぼ平坦だが決して広いとはいえない敷地に建っていた。座敷に近く土蔵が建ち、その周りに何本かの高木や低木が植わっていたが、庭園と呼べるほどのものではなかった。もとは正面を南東に向けて建っていたが、移築にあたっては、民家園としての配置計画の都合上、南面して建てられた。
 屋根は茅葺で寄棟造妻入である。前方右手にウマヤなどをおさめたつのやを付す。移築前はこのつのやは瓦葺にして拡張されていたが、主要材料はほぼそのままにしての改造であったため、復原は容易であった。
 妻入の越前型で、この型としては橋本家住宅(大野市、重文)より一般的である。ナンドとオイエの奥にザシキとブツマを設け、ニワの右手にウマヤをつのやとして張り出しているなど、橋本家住宅より一回り大きい。大戸口の正面奥に仏壇を祀るのは越前型と。型共通の特徴で、妻入の間取りと相まって奥深い荘厳な空間を演出するのに効果が大きい。仏壇の背後に大きな開戸を設けるのは、火災など非常の際に大切な仏壇を安全に運び出すためといわれ、時々見掛けるものである。
 中柱の足下のほぞ穴の様子や、床下が叩仕上であったことから、オイエの床は当初土座であったと推定されるが、座敷が整備された時期を目安に復原したため松板張とした。中柱とはニワあるいはオイエと部屋の境に立つ太い柱で、ほかの地方でいう大黒柱に当たる。
 中柱をはじめオイエの四隅と四辺のそれぞれ真ん中に立つ柱は、いずれも欅の太い柱で、漆を塗った表面はきれいに磨き上げられて鏡のようである。オイエの頭上に十文字に架かる梁は、松の丸太を丁寧に太鼓に落とし、端部と中央部との面取の仕方を変えるなど念の入った仕事をしている。この梁の架け方も越前型特有のもので、梁間4間、奥行4間半のオイエとニワの架構はすっきりした対称形で、両側と前側には3間入ったところに上屋桁をまわしている。
 ブツマとザシキには長押がまわっているが、このうちザシキの長押はブツマより後れて、建築後しばらく経ってから打ったものであることがわかった。それを示唆するのは、狐鴨居に施されていた着色面が長押を打つために削り取られていることである。そのつもりで見ると、ブツマの長押とザシキの長押とはわずかに木目の表情が違うことに気付く。また、断面自体が異なるばかりか、面取の幅も異なる。
 違棚の雑作が後れてなされたことが、棟梁の弟子に対するしつけの厳しさとともに伝えられているが、床、棚、書院を整備した際に長押も打ったのではないかと想像される。その時期は恐らく幕藩体制下の禁制から解放され、明治に入ってからのことであろう。ブツマの長押が許されたのは、それが座敷という階層的な接客室ではなく、庶民の信仰の空間として認めざるを得ないという、真宗王国特有の理由に基づくものではなかったかと思われる。
 オイエと部屋境の鴨居は、平物の下に狭い鏡板をはさんで鴨居を吊るという新しい手法によっている。これよりもう一つ古い手法は、平物の下に鴨居を直に取り付けた土屋家住宅のような例であり、さらに古いのは平物に直接溝を彫って差鴨居としたものである。最も古いのは、平物に付樋端を打って差鴨居とするもので、18世紀にさかのぼるような古民家はほとんど付樋端であったことが知られている。
 移築に当たってはできる限り創建当初の状態に復原することを目標にしたが、座敷の長押やおいえの板床など明治初期の頃を目処に整備した。補足材として福井市江上町の前川信吉家住宅の解体部材も使用した。

旧山下家板倉


 勝山市北谷町小原は県内でも代表的な山村として知られている。県境の谷峠に至る国道157号線の改良に伴う径路変更によって、近年格段に交通の便が良くなったが、それまでは山深い谷間に隔絶された山村であった。険しい山腹にへばりつくように家々が並ぶ景観は、福井県には珍しい板葺きの石置き屋根であることもあって古くから度々紹介されたところである。また、越前側から白山へ登るルートの中継地でもあった。
 木材の豊富な山間の村々では、壁を板で作った倉が建てられた。土蔵に比べ板倉は火災に弱い。貴重な穀物や家財の類焼を避ける為に、集落から離れた険しい谷の向かいの斜面に、各家の倉をまとめて建てた。宅地が狭い山村では、母屋に隣接して倉を建てる余地が無かった為でもある。小原ではそこを倉屋敷と呼んでいた。瓦葺きの土蔵と異なり、茅葺きや板葺きの板倉では火災に一層の注意を要したのである。
 この倉もそのうちの1棟で、山下政氏夫人の祖父である山本六兵衛氏が慶応年間頃に建てたと伝えている。
 前方の1室と2階は後に増築されたものと考えられるが、内部を二重としたこの形式は小原で一般的なものとなった。1階の奥の部屋は壁板を竪羽目とし、貫を内外に二重に入れてそれを挟み、板の継目には外から間柱を当てて隙間を厳重に閉ざしている。これに対して1階の前の部屋と2階は、柱の小穴に横板を落とし込んだだけで継目は突き付けであり、貫も壁板の外側に1本だけである。これは穀類を保管するための奥室を鼠害から守る為の配慮であろう。


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